資格受験 ブログランキングへ




◆歩いてわかる中央区ものしり百科「食文化を探る」を理解する



※【 】は問題になりそうなキーワード



◆◆寿司
→江戸っ子の生活習慣に溶け込んだ寿司

すしのルーツは【なれずし】といわれ、当初は【塩漬けの魚】を【飯】の中に入れて【発酵】させて、【魚】だけを食べていたが、【魚と飯】を一緒に食べる【生成(なまなり)】が主流になった。
→こうした【なれずし】は、完成まで【数日】かかる。その手間を省くため、【発酵していないネタ】に【酢】をからませて【鮮度を保つ調理法】で、江戸時代に誕生したこの手法は【早ずし】と呼ばれる。
→【握りずし】の誕生は文化・文政期(1804-1830)といわれる。
→文政12年(1829)に刊行された川柳句集【誹風柳多留(はいふうやなぎだる):108編】には、【すしを握る職人の手つき】が忍術使いの呪文をとなえる様子に似ているところから【妖術という身で握る鮓の飯】という句が読まれている
→【握りずし】の創案者は【花屋(華屋)与兵衛】とするのが通説
→この【両国】の【与兵衛ずし】を先駆として、【江戸のすし】は【握りずし】が主流となり、【すし屋台】が普及する
→当時の人気ネタは【鯛・平目・小鰭(こはだ)・玉子・穴子】などで、ネタには味がつけられていた→味をつけずに出すのは【明治以降】で、その手法が広がり、【江戸前】が普及
→【江戸前】は【江戸城】の【前面の海】でとれた魚介類を指していたが、現在では広く【東京湾】でとれたものを言う



◆◆蕎麦
→最盛期は江戸市中に4,000軒の店が営業

【近江国(現在の滋賀県)】の【多賀神社の社僧慈性(じしょう)】が著した【慈性(じしょう)日記】の慶長19年(1614)の条には、【江戸の常明寺】で【そば切り(細く切って茹でたそばの元祖)】を振舞われたことが記されている
→慶長年間(1596-1615)には、既に「そば切り」の手法が広まる
→江戸では【財津種爽(たからつしゅそう)】が著した随筆【むかしむかし物語】に、寛文4年(1664)に、【けんどんうどん・そば切り】というものができた
→【世鷹そば】の異名をとった【夜間営業の屋台】も繁盛した
→【そば切り】は、当初、【そば汁(つゆ)】につけて食べるだけだったが、元禄年間(1688-1704)頃には【汁をかける食べ方】が考察された
→熱い汁をかけた【そば切り】は【かけ】と称され、従来の食べ方を【もり】と区別
→この【もり】に【のり】を散らした【ざる】が売り出されるのは明治に入ってから
→幕末には、数種類の具材を【おかめの面】のようにそばの上にのせて並べたことから【おかめそば】が生まれた



◆◆鰻の蒲焼
→中村座の金主(きんしゅ)がうなぎめしの発案者?

【うなぎ】は江戸前の代名詞と呼ばれたのは、江戸では【真水】と【海水】の入り混じった【隅田川の河口】で育った【うなぎ】がとても美味しかったから
→【蒲焼】という【うなぎ】の調理法は、【上方】から江戸にもたされた
→享保期(1716-1736)に刊行された【江戸名所百人一首】の【深川八幡宮門前】を描いた絵には【めいぶつ大かばやき】の看板が見える
→文化期(1804-1818)には【うな丼の前身】である【うなぎめし】が【葺屋(ふきや)町】の【大野屋】から売り出された
→【うなぎめし】の誕生には【江戸三座】の一つ、【中村座】の金主【大久保今助(1757-1834)】が関わっている
→嘉永年間(1848-1854)の【うなぎ屋】の見立て番付には、江戸のうなぎ屋が約【200軒】もあげられていた



◆◆天ぷら
→世界中に発信された江戸ならではの食文化

江戸の【天ぷら】は【ころも揚げ】と呼ばれ、ゆるく溶いた【小麦粉】を【魚介】や【野菜】などのネタにつけて油で揚げたもの
→上方では【魚肉のすり身】を団子などにして揚げたもの(現在の【さつま揚げ】)を【天ぷら】と呼んでいた
→安永年間(1772-1781)には、【天ぷらの屋台】が江戸の町に登場
→天明6年(1786)に刊行された【山東京伝(やまとうきょうでん)】の【江戸春一夜千両】に【天ぷら屋台】の挿絵が掲載されている
→【天ぷら屋台】では、【海老】や【小鰭(こはだ)】・【烏賊(いか)】・【穴子】・【貝柱】といった【江戸前の魚介】を【日本橋の魚河岸】から仕入れ、そのネタを【串】に刺して油で香ばしく揚げた
→嘉永年間(1848-1854)になると【店舗営業】を行う【天ぷら料理店】が登場
→当時、【日本橋】には【2つ】の有名店があり、1つは【吉兵衛】で、【カツオなどの高級魚】
 をネタに使った【天ぷら屋台】、もう1つは【銀蔵】で、【室町】にあり、【食通】が集まる店
→大戦後、当時の外相【吉田茂】が【GHQの高官】を【銀座の天ぷら屋】に招いたことも有名



◆◆佃煮
→漁師の保存食として発展した名物料理

【佃島】は、正保元年(1644)に【摂津国西成群佃村(現在の大阪市西淀川区)】の漁師たちが【鉄砲洲東】の【干潟百聞(約180m)四方】を埋め立てて築いた島
→【佃島】の漁師たちは漁を行う際に【腐らない副食物】として、【小魚】を【塩辛く煮詰めた保存食】を作った
→【下総国野田(現在の千葉県野田市)】から【醤油】が入り、製造法は【塩水煮】から【醤油煮】へち変わり、【佃島】にちなんで【佃煮】と命名される
→現在、【佃煮】の素材は【魚介類】のほか、【牛蒡(ごぼう)】・【蕗(ふき)】・【牛肉】を扱うなど多様化している



◆◆海苔
→江戸のみやげとして珍重された浅草海苔

【浅草】周辺が【江戸湾】の一部だった頃、【干潮時】には近在の漁民が自然育成する【海苔】をとっていた
→【海苔】の養殖は、【下総国(現在の千葉県)葛西方面】や【品川】・【大森】・【羽田】付近の海岸で始り、【木の枝】を【わら】でくくった【棚】を【内海】に立て、これに【海苔】を付着させて大量生産する
→この【生海苔】を【浅草】まで運んで【乾海苔】を生産するようになり、【浅草海苔】という名称がつけられる
→当時の最上品は【青紫色】の【浅草】や【葛西】産の【海苔】だったが、【品川】や【大森】産の【海苔】が【浅草海苔】の主流となっていく
→安永・天明期(1772-1789)の頃に、【日本橋】にも【海苔問屋】が現れ、【振り売り(行商人)】を使って【乾物屋】などにも【海苔】を卸した
→大小の【かぶせ蓋の箱】を【天秤棒】にぶら下げ、かついで市中を売り歩く【海苔の振り売り】は江戸の風物詩となる
→浅草の【海苔問屋】・【永楽屋庄右衛門】のような大商人は【御膳海苔御用達】をつとめ、【高価な乾海苔】を販売していた
→昭和37年(1862)には、東京湾付近の【漁業権】を【東京都】が買い上げ、【海苔の生産】は中止される



◆◆もんじゃ焼き
→月島西仲通りには人気店がずらりと並ぶ

月島は、明治25年(1892)、【隅田川】河口に溜まった【土砂】を利用して【築島】が始まり
→【駄菓子屋】で、遊びながら食べる【おやつ】として人気があったのが【もんじゃ焼き】
→語源は【文字焼き】、水で溶いた【うどん粉】で鉄板の上に【文字を書いた】ものがなまったもの
→月島の【もんじゃ焼き】は当初【水焼き】と呼ばれ、【水で溶いたメリケン粉(小麦粉)】を鉄板の上に引いて焼き、【醤油】をつけて食べるシンプルなものだった
→特にもんじゃ屋の件数が多いのが【西仲通り】で【もんじゃストリート】の異名がある
→月島には、現在、約【60軒】のもんじゃ屋からなる【月島もんじゃ振興会協同組合】が設立されている
もんじゃ焼き
もんじゃ焼き



 
資格受験 ブログランキングへ