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◆歩いてわかる中央区ものしり百科「区民有形文化財」を理解する

→22もあるので、覚えるのは大変ですが、よく出題されます!

※【 】は問題になりそうなキーワード



◆◆椙森神社:恵比須神(日本橋堀留町1-10-2)
→宝くじ興行を記念した石碑が境内にある神社

椙森神社は【平安時代】の創建
→【江戸時代】には、【烏森】・【柳森】と並ぶ【江戸三森】の一つ
→昭和6年(1931)、関東大震災で焼失後、再建
→境内社地内には、【社殿・社務所・神楽殿・水盤舎・鳥居】があり、区民有形文化財(建造物)に登録されている
→江戸時代に流行した【富くじ興行】の場所
→宝永年間(1704-1711)に、【神社仏閣の改修費用】にする目的で【富くじ】が始まる
→天保13年(1842)、水野忠邦による改革で、禁止となる
→大正8年(1919)、境内に【富くじ興行】を記念する石碑【富塚の碑】が建立
→昭和29年(1954)、関東大震災で倒壊した【富塚の碑】が再建され、区民有形民俗文化財に登録されている
椙森神社
椙森神社:恵比須神



◆◆小網神社社殿及び神楽殿(日本橋小網町16-23)
→伝統的な意匠を備えた貴重な神社建築

【室町時代】に建立された【小網山万福寺】に祀(まつ)られていた【稲荷社】に起源
→昭和4年(1929)、関東大震災で焼失した社殿が再建された
→伝統的な【神社建築】としての意匠を備えており、向背(こうはい)には【龍・獅子・ばく・鳳凰・波】などの優れた彫刻が施されている
→【五角形の神楽殿】は建築当時は平屋だったが、のちに1階部分に【倉庫】をつくり、その上に【神楽殿】を移設
→区内に存在する数少ない【木造の神社建築物】
小網神社
小網神社




◆◆京橋の親柱(銀座1-2先・銀座1-11先・京橋3-5先)
→京橋に残る3基の石造親柱

慶長8年(1603)、京橋が創建
→【江戸時代】は【木造】だった
→明治8年(1875)、【石造アーチ橋】
→明治34年(1901)、【鉄橋】
→大正11年(1922)、拡張工事にて、【アール・デコ様式の橋】に架け替えられる
→昭和38-40年(1963-1965)にかけて【京橋川】の埋め立てに伴って撤去
→現在、【中央通りの歩道】に【石造親柱が3基】残されている
→明治8年(1875)の【擬宝珠のある2基の親柱】には、【詩人の佐々木支陰】による、【京橋】と【きやうはし】の【橋名】がそれぞれ彫られている
→大正11年(1922)の【照明設備のある親柱1基】は【大正十一年十一月成の鋼板プレート】がついている



◆◆住吉神社水盤舎・陶製扁額(佃1-1-14)
→鳥居に掲げられた陶製扁額も見どころ

正保3年(1646)、【摂津国西成群佃村(現在の大阪市西淀川区)】の住吉神社を分社
→境内にある【水田舎の欄間部分】には、佃島の昔をしのばせる【浮き彫りの彫刻(石川島の灯台を背景にした佃の渡しの風景)】がある
→天保12年(1841)、【木綿問屋の白子組】が中央に置かれた【水盤】を寄進
→【石造の鳥居】に掲げられた【陶製扁額】も【区民有形文化財】に登録されている
→【陶製扁額の額面】には【有栖川宮幟仁(みやたかひと)親王】の染筆(せんぴつ)により、【明治十五壬午歳六月三十日 住吉神社一品幟仁親王】の文字が鮮明な青色に焼きつけられている
→【扁額】は木製が一般的だが、【陶製】の大作であることが注目されている
住吉神社水盤舎
住吉神社水盤舎




◆◆柳橋(東日本橋一丁目~台東区柳橋一丁目)
→重厚感のある形状は永代橋がモデル

【神田川】が【隅田川】に流れ込む河口部に架けられた橋
→元禄11年(1698)、幕府の命を受けた【町年寄】が木造橋を架けてのが始まり
→明治20年(1887)には【トラス橋】に架け替えられる
→当初、【鋼鉄製】だったが、関東大震災で【落橋】する
→昭和4年(1929)に現在の橋が建造。【永代橋】をモデルに、【シンプルで重量感のある】デザインが採用されている
→【隅田川】に注ぐ【支流河口部の第一橋梁(きょうりょう)】であり、【隅田川】から帰航する船頭が位置を確認しやすい形状になっているのが特徴
→【柳橋の周辺】は【江戸時代】から【舟遊びの拠点】として有名で、【永井荷風の「牡丹の客」】、【横光利一の「紋章」】といった文学作品にも描写されている



◆◆豊海橋(日本橋箱崎町~新川一丁目)
→重厚感のある形状は永代橋がモデル

【日本橋川】が【隅田川】に注ぐ河口部に架かる橋
→元禄11年(1698)に【木造橋】が架けられ、【豊海橋】あるいは【乙女橋】と呼ばれた
→明治36年(1903)に【鉄橋】に架け替えられる
→昭和2年、関東大震災で崩壊したこの橋を再建
→重量感のある【鉄骨橋】で、隅田川に架かる【永代橋】とのバランスを考慮した設計で、【梯子を横倒し】にしたような、珍しいデザイン
→【豊海橋】周辺の美しい風景は、【北原白秋の「大川風景」】、【永井荷風の「断腸亭日乗」】にも描かれている
豊海橋
豊海橋


◆◆一石橋(いちこくばし)の親柱(八重洲1-11先)
→関東大震災でも壊れなかった頑丈な橋

【江戸時代初期】に、【木造橋】として【一石橋】が【外堀と日本橋川の分岐】された場所に架橋される
→橋名の由来は【江戸砂子】の中に、【橋の北に金座御用の後藤氏の屋敷】があり、【南に御用呉服商の後藤氏の屋敷】があり、【後藤(五斗)】を2つ合わせて【一石橋】と呼ばれたとある
→異説もあり、【十方庵遊歴雑記】には、江戸初期、使用禁止になった【永楽銭一貫文】に付き、【米一石】と取りかえた場所が【一石橋】であったことに由来するともある
→大正11年(1922)、【鉄筋コンクリート造のアーチ橋】に架け替えられる
→外壁に【花崗岩】を使用した立派な橋で、【親柱は4本・袖柱は8本】あり、橋の上には【市電】が通っていた
→平成9年(1997)、大改修が行われ、親柱1本を残し、撤去された
一石橋の親柱
一石橋の親柱



◆◆海運橋の親柱(日本橋1-20先、日本橋兜町3先)
→明治東京の名所であった海運橋の名残

【海運橋】は、【本材木町(現在の日本橋一丁目)】と【坂本町(現在の日本橋兜町)】との間を流れる【楓川(もみじがわ)】に架かっていた
→【橋の東詰】に【江戸幕府御船手頭の向井将監(しょうげん)】の屋敷があったため、【将監橋】や【海賊橋】と呼ばれる
→明治元年(1868)、縁起の良い【海運橋】に改称
→明治8年(1875)、【西洋風のアーチ型石橋】に架け替えられる
→昭和2年(1927)、関東大震災で損傷した橋は【鉄橋】に架け替えられる
→昭和37年(1962)、【楓川(もみじがわ)】が埋められて、【高速道路】となり、橋が撤去され、【2基の親柱】のみが残される
→ひとつの親柱の正面には【かいうんはし】、もうひとつには【紀元二千五百三十五年六月造】の刻銘と、右側面に【海運橋】の刻銘がある



◆◆鉄砲洲稲荷神社(湊1-6-7)
→拝殿・幣殿・本殿が連続する権現造り

【鉄砲洲稲荷神社】は、江戸時代、八丁堀の舟入堀に架かる【稲荷橋】近くの河岸地にあり、諸国の【廻船】が出入りする【湊】にあったことから、【湊稲荷】と呼ばれていた
→明治元年(1868)、【築地外国人居留地】が開設され、現在地に移転
→昭和10年(1935)、【礼拝を行う拝殿】、【奉献を行う幣殿】、【祭神を安置する本殿】が連続する【権現造り】で造営される
→昭和12年(1937)、【神楽殿や摂社・社務所・手水舎(ちょうずや)】などが再建
→【神楽殿と社務所は入母屋(いりもや)造り】、【摂社と手水舎(ちょうずや)は切妻造り】の【木造建築】で、屋根はすべて【銅板葺(どうばんぶき)】になっている
鉄砲洲稲荷神社
鉄砲洲稲荷神社



◆◆銅造 地蔵菩薩立像(日本橋茅場町1-5-13)
→シンプルな蓮華座の上に安置された菩薩像

【知泉院(ちせんいん)】は江戸時代、【茅場町薬師】と呼ばれ、【江戸名所図会(ずえ)】には【薬師堂のほか、毎月開かれた縁日での植木市の様子など】が描かれている
→境内にある【地蔵菩薩立像】は、【彫刻家の戸張狐雁(とばりこがん)】が制作し、【区民有形文化財】に登録される
→【像高は2.35m】で、【頭部に光輝を示す宝珠光背(こうはい)】を備え、【左手に宝珠】、【右手に錫杖(しゃくじょう)】を持ち、【反花(かえりばな)と蓮弁(れんべん)】だけのシンプルな【蓮華座】の上に安置される
→天保12年(1841)、本尊である【薬師如来像の開帳】を記念して、境内の【天水鉢(てんすいばち)】が奉納され、後に【区民有形民俗文化財】に登録される
→境内には【天水鉢(てんすいばち)】が【2基】残されており、それぞれの正面に【坂本町】・【奉納】の文字が記されている



◆◆白魚献上箱(明石町12-1 郷土天文館)
→御用漁でとれた白魚を将軍に献上した箱

【佃島】の漁師が【白魚】を献上する際に使われた箱
→【朱漆塗りの内箱】を【黒漆塗りの挟み箱】に入れ、【かつぎ棒】を通して運んだ
→【御用漁(白魚を献上するための漁)】は毎年【11月~翌年3月】に定置網の一種である【建網(たてあみ)漁法】によって行われた
→【朱漆塗りの内箱】のふた部分には【御膳白魚箱】【佃嶌(つくだじま)】と【金泥(きんでい)】の銘が入っている
→【黒漆塗りの挟み箱】には【御膳御用】と【御本丸】の銘が朱漆で記されている



◆◆埋枡(うめます)および木樋(もくひ)(明石町12-1 郷土天文館)
→地中から出土した神田上水の一部

昭和50年(1975)、【神田上水の一部】を地下鉄工事中に、【日本橋室町一丁目】の【地下約2m】の地点で発見された
→【埋枡(うめます)および木樋(もくひ)】は、【上水の分岐】や【不純物の沈殿】を目的に、地中に埋設されたもの
→【埋枡(うめます)】は【約1.3m四方・高さ約1.6mで、板の厚さは約9cm】
→【木樋(もくひ)】は【30-42cm角で板材の厚さは5-8cm】で、接続部分には【シュロの毛や樹皮】などが詰められていた



◆◆カトリック築地教会聖堂
→外観も見応え十分パルテノン様式の聖堂

明治7年(1874)、【長崎、横浜】に次ぐ【キリスト教会】として、【築地外国人居留地】内に建設された
→明治11年(1878)、【聖堂】が創建される
→昭和2年(1927)、関東大震災で焼失された【聖堂】は、パリにある【聖マグダレナ天主堂】を参考に、【ギリシャ神殿パルテノン様式】で建てられた
→設計を担当したのは【ジロジアス神父】と【石川音次郎道師】
→壁面を【モルタル塗り】で仕上げた【木造建築】で、正面には【ドーリア式の柱が6本】並び、屋根正面の【切妻壁】には【バラとチューリップ】の彫刻がある
→【聖堂】内部は【教会堂形式(中央部分の天井が周囲の回廊よりも高く設定)】で、堂内には明治9年(1876)に【フランス】で鋳造された【銅製洋鐘(ようしょう)】が【区民有形文化財】に登録された
カトリック築地教会聖堂
カトリック築地教会聖堂



◆◆アメリカ公使館跡の記念碑(明石町8 聖路加ガーデン内(2基)・明石町10 聖路加国際病院トライスラー記念館前(3基)

明治8年(1875)に、現在の【明石町】に【アメリカ公使館】が開設され、昭和23年(1948)まであり、【木造2階建て】の【クリーム色のペンキが塗られた洋館】
→現在は【記念碑】が、【聖路加国際病院】と【聖路加ガーデン】内に【5基】ある
→【伊豆半島の石材】に、【白頭鷲】・【盾形の星条旗】・【五稜の星】などが彫刻されている
アメリカ公使館跡の記念碑
アメリカ公使館跡の記念碑



◆◆海幸橋(かいこうばし)の親柱(築地5-2先・築地6-20先・築地6-27先
鋼鉄製親柱と石造親柱を保存

明治2年(1927)、【海幸橋(かいこうばし)】は【旧築地川東支川(しせん)の隅田川河口部】付近に架けられた橋
→橋名の由来は、築地市場の入り口近くだったので、【豊漁】を祈願してつけられた
→平成7年(1995)、【旧築地川東支川(しせん)】が埋め立てられ、【橋の本体】も平成14年(2002)に撤去された
→【アムステルダム派】のデザインを取り入れた【鋼鉄製親柱2基と石造親柱2基】が現地に保存されている



◆◆燈臺(とうだい)(銀座4-1 数寄屋橋公園
関東大震災10周年を記念した銅像彫刻

長崎市の【平和記念像】の作者である彫刻家【北村西望(せいぼう)】が制作した【銅像彫刻】
→【兜を身に着けた】青年が【松明(たいまつ)】を持ち、【獅子】を従えている
→昭和6年(1931)、【帝国美術院第12回美術展覧会】に出品
→昭和8年(1933)、【関東大震災10周年】の記念碑として【数寄屋橋公園】に設置
→台座にある【ブロンズ製の鋳造銘鈑】には【不意の地震に不断の用意】と記されている



◆◆南高橋(みなみたかばし)(湊一丁目~新川二丁目
旧両国橋の中央部分を本体の一部に再利用

昭和7年(1932)、【亀島川】に架けられた鉄橋
→橋の本体には、【旧両国橋】の一部が使われている
→明治37年(1904)、【隅田川】に架けられた【三連トラス橋】の【旧両国橋】が架橋
→【旧両国橋】が関東大震災で被害を受け、【中央部分】を【南高橋(みなみたかばし)】に移設
→現存する明治期の【鉄骨橋梁】としては、明治11年(1878)建造の【旧弾正橋(現在の江東区の八幡橋)】に次いで古い橋
南高橋
南高橋



◆◆聖路加国際病院トイスラー記念館(明石町10
鉄筋コンクリート造の宣教師館を移築復元

昭和8年(1933)、【聖路加国際病院の宣教師館】として建設された
→【鉄筋コンクリート造の2階建て】で、【西洋風】の建築意匠
→平成10年(1998)、【隅田川】に面した場所から、【聖路加国際病院の中庭】に移築復元された
トイスラー記念館
トイスラー記念館



◆◆新大橋の橋名板(明石町12-1 郷土天文館
鉄骨橋に掲げられた橋名板

明治45年(1912)江戸時代から【木橋】だった【新大橋】は【鉄骨橋】架け替えられた
→【三角形】を基本とする直線的な【トラス構造】
→【郷土天文館】に保存されている【橋名板】は、鉄骨橋の正面上部に掲げられていたもの
→昭和49年(1974)の架け替え工事の際に取り外された
→鉄板の内側には、【新大橋】と【SHIN-O-HASHI】の文字が浮き彫りされている
→楷書部分は【書道奨励会の会頭】で【明治三筆】の一人、【野村素介(もとすけ)】の筆によるもの
→愛知県犬山市にある【博物館明治村】にも【橋名板】と【鉄骨の一部】が保存されている



◆◆魚河岸水神社賀茂能人形山車巡行模型(明石町12-1 郷土天文館
山王祭で曳かれた山車の復元模型

【賀茂能人形山車】は、江戸時代、【日枝神社の山王祭】で、【日本魚橋河岸の山車】として曳きだされていたが、明治維新後は、【神田神社】内にある【魚河岸水神社の祭礼(水神祭)】で曳かれるようにある
→作者は【3代目原舟月(しゅうげつ)】
→昭和30年(1955)、この模型を復元し、区民有形文化財に登録された



◆◆日本橋の橋柱装飾品 青銅製麒麟像鰭(ひれ)及び装飾品(明石町12-1 郷土天文館
改修工事ではずされた日本橋の装飾品

【日本橋】は慶長3年(1603)創架以来、何度も架け替えられた
→明治44年(1911)、木造から【2連アーチの石造橋】に架け替えられた
→装飾品はすべて【青銅製】
→【郷土天文館】に保存されているのは、平成10年(1998)の改修工事の際に取り外された【麒麟像の右鰭(ひれ)と灯柱の飾り蓋などの付属品4点】



 

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