資格受験 ブログランキングへ




◆歩いてわかる中央区ものしり百科「商業活動が活発に」を理解する



※【 】は問題になりそうなキーワード


◆◆日本橋に「現金掛値なし」の商店が誕生

元和(げんな)4年(1618)に架け替えられた
【日本橋】は、
【長さ三十七間四尺(約67.8メートル)、
幅四間二尺(約7.8メートル)】の【木造橋】で、【欄干には擬宝珠】が飾られる。


日本橋の【たもとには魚市場】が開かれる。

寛文2年(1662)には、
【日本橋通二丁目(後に通一丁目へ移転)】に【白木屋が進出】。

名所江戸百景 日本橋通一丁目略図
「名所江戸百景 日本橋通一丁目略図」 
提供:中央区立京橋図書館



【京都で材木店】を営んでいた【白木屋】は、
商売拡大のために【江戸で支店を開業】。

当初は【キセルを中心に小間物】を扱っていたが、
徐々に【呉服商へと転換し、大店(おおだな)】となる。


延宝元年(1673)には、
【三井越後屋(現在の三越)】が【本町一丁目に開店】。

天和(てんな)3年(1683)に
【駿河町へ移転】後、【交渉して値段を決める当時の商法】をくつがえし、
【あらかじめ決められた値段で取引する「現金掛値なし」の商法】に変更。



◆◆河川から積荷を上げる河岸地(かしち)が発達

享保年間(1716-1736)、江戸の人口は【100万人】に。

【井原西鶴】は
『【日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)】』で、
「【通り町十二間の大道】も狭いほどで、
この橋の上に【馬上一人、出家一人、鑓(やり)一筋】が朝から晩まで絶えることがない」と
当時の【日本橋周辺の賑わい】を描写。


この膨大な人口を支える物資の供給に、
【海上・河川運輸】が利用される。

海に面した商業地である中央区域である中央区域には
【多くの運河】が設けられる。

そして川沿いには、【荷揚げ場所となる河岸】が発達。

多くの河川や運河の中でも
【日本橋川・京橋川・三十間堀・八丁堀】などは【水運の大動脈】。


【日本橋川から北側】に入り込む【舟入り堀】には
【塩河岸・米河岸・小舟河岸・堀留河岸】があり、
陸地には【米穀類や塩物・乾物類を扱う問屋倉庫の白壁】が建ち並ぶ。

【京橋川沿い】には、
【大根(だいこ)河岸・薪河岸・竹河岸】などがあり、
【薪炭(しんんたん)や竹木類を扱う問屋】が並ぶ。


【荷物を積んだ馬の集積地】となっていた【大伝馬町】は、
【三河木綿問屋が集中】していたことから、
【「木綿店(もめんだな)」】とも呼ばれる。

【はじめ4軒ほどであった問屋】を頼って
【尾張・三河の商人】が江戸へ下ってきて、
貞享(じょうきょう)3年には【70軒に達する】。


また、日本橋から江戸橋にかけての【日本橋川沿いの河岸】、
いわゆる【魚河岸】には【魚市】が立つ。

漁業を活発にしたのは、【徳川家康】が江戸に入府した後、
【摂津国西成郡佃村(現在の大阪市西淀川区)】から移り住んで
【佃島を築いた漁民たち】で、とれた魚は幕府に献上。

そして、上納品の残りを【板舟の上に並べて】一般に販売。


これが【日本橋魚河岸の始まり】で、
【関東大震災で焼失】するまで続く。



◆◆商業活動の興隆により商人の組織化が進む

元禄7年(1694)、
大阪から下ってくる【諸荷物の荷受け問屋たち】が集まり、
【海難など積荷の共同損害補償】を行う
【十組問屋(とくみといや)仲間】が結成。


江戸の【十組問屋(とくみといや)】の荷は、
【菱垣廻船(ひがきかいせん)】で輸送。

【杉本茂十郎(もじゅうろう)】は、
新造船を【菱垣廻船(ひがきかいせん)】に回すことに成功し、
文化10年(1813)には【一種の独占団体である株仲間】となる。


一方、日本橋の魚問屋は、
【四組問屋】=
【本船町組(ほんふなちょうぐみ)・
本小田原町組・
本船町横店組(よこだなぐみ)・
安針(あんじん)町組】。

庶民は隅田川に舟を出して涼をとる【隅田川舟遊び】、
【鍵屋・玉屋】が打ち上げる花火を鑑賞する【両国の川開き】を楽しむ。


日本橋 江戸名所図会
「日本橋」 「江戸名所図会」
提供:中央区立郷土天文館





 
資格受験 ブログランキングへ