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◆歩いてわかる中央区ものしり百科「徳川家康の江戸入府とまちづくり」を理解する
※【 】は問題になりそうなキーワード
◆◆幕府成立後に大規模な土木工事
天正18年(1590)に【徳川家康】が江戸に入府した当時は、【葦(あし)や薄(すすき)の生い茂る潮の浜】が続く場所だった。
江戸入府から13年後の慶長8年(1603)、【家康】は【江戸に幕府を開く】とともに、大規模な【まちづくり】に着手した。
まず、【神田山】などを堀り崩した土で【現在の日比谷入江】が埋め立てられ、【浜町付近から新橋に至る隅田川沿い】の一帯が作られていった。
日本橋や京橋などの【町人地(ちょうにんち)】は、この時期に完成したといわれる。
元和(げんな)2年(1617)には、【現在の神田川にあたる掘割りが開削】された。
これにより、人々は【洪水の心配から解放】され、安心してまちの発展に寄与していく。
土地の造成と並行して【浄水路の整備や幹線道路づくり】も行われた。
【日本橋】は、【平川(ひらかわ)が東へ延ばされて日本橋川となった】ところに架けられた橋で、まちづくりが始まった慶長8年(1603)頃に完成されたとされる。
【日本橋】の橋名(きょうめい)の由来には諸説あるが、幕府が編纂した地誌『【御府内備考(ごふないびこう)】』には、「この橋、江戸の中央にして、諸国の行程もここより定められるゆえ、【日本橋】の名ありといふ」と記されている。
橋が完成した翌年には、【一里塚】が設置され、日本橋は【五街道】の起点となった。
また、名実ともに江戸の中心地となった【日本橋】には、幕府が決めた【法度(はっと)や定書(さだめがき)などを板札】に書き、人目をひくように高く掲げる【高札場(こうさつば)】が置かれた。
【京橋】が架けられたのも日本橋とほぼ同じ時期で、この道筋は【京都とつながる東海道の出発点】となった。
【京橋の欄干(らんかん)】には、【日本橋や新橋と同様】に【擬宝珠(ぎぼし)】が飾られ、その後長く【江戸の玄関】としての役割を果たすことになる。
「東海道五十三次之内 日本橋」 提供:中央区立京橋図書館
◆◆まちづくりの整備に伴い、市場や商店街が発展
【江戸城を中心とするまちの基盤】は、寛永12年(1635)頃にはほぼ完成した。
まちの土台が整いはじめると、人々の食生活を支える【市場】が立ちはじめ、【日本橋の魚市場】や【京橋の青物市場】が相次いで開かれた。
また、【商店街】も【本町、大伝馬町、横山町、馬喰町から南の日本橋、京橋、銀座、新橋】へと広がり、【関西出身の商人たち】が次々に店を開いた。
こうした活況を後押ししたのが参勤交代である。
寛永12年(1635)の【武家諸法度】で定められた【参勤交代】によって、【江戸藩邸】では【多くの藩士】が生活するようになった。
寛永元年(1623)、【中橋南地(現在の京橋一丁目周辺)】に【猿若座(のちの中村座)】が建てられ、この地は【江戸歌舞伎の発祥の地】となった。
寛永9年(1632)頃には、【中橋の芝居小屋】は【禰宜町(ねぎちょう:現在の日本橋堀留町付近)に移転】し、その後この一帯は【芝居町】として隆盛することになる。
【木造家屋が密集】する江戸のまちは、「【火事と喧嘩は江戸の華】」といわれるほど、【火事】が多く、人々を悩ませていた。
明暦3年(1657)1月18日に発生した火事は激しく燃え広がり、一旦鎮火したものの再び出火し、翌19日には【江戸城の天守・本丸・二の丸・三の丸】を焼失した。
のちに「【明暦の大火(振袖火事)】」と呼ばれるこの火事は、【2日間】で現在の【中央区の大半】を焼き尽くし、【10万人以上の死傷者】を出したと伝えられる。
この大火をきっかけに【江戸市中の大改造】が行われた。
まず、延焼を防御する【火除地(ひよけち)】を江戸城内に設けるため、場内にあった【武家屋敷】は御三家をはじめとして【すべて郭外(かくがい)へ移転】させられた。
結果、現在の中央区では、【武家屋敷の数が増え】、その一方で【日本橋や京橋付近は町屋として栄えていく】。
また、【人形町から富沢町】にかけて広がっていた【吉原遊郭】は、大火を機に【浅草へ移転】した。
「西本願寺」 『江戸名所図会』 提供:中央区立郷土天文館
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