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◆歩いてわかる中央区ものしり百科「伝統芸能・遊郭」を理解する



※【 】は問題になりそうなキーワード



◆◆江戸歌舞伎
江戸歌舞伎の特長は、【初代市川團十郎】が創始した【荒事】の演技があげられる
→【隈取(くまどり)】した【英雄】が【悪人】を滅ぼす【勧善懲悪(かんぜんちょうあく)】の物語が観客を魅了した
→江戸後期には、【四代目鶴屋南北】が【東海道四谷怪談】、【河竹黙阿弥】が【青砥稿花紅彩絵(あおとぞうしはなのにしきえ)】(【白波五人男】)といった名作を書き下ろした
→劇場の入場券である【切落札】(【自由席】)と【土間札】(【やや上等な席】)があった
→【市村座の切落札】は【日本橋二丁目】遺跡、【森田座の切落札】は【京橋二丁目】遺跡、【中村座の土間札】は【日本橋一丁目】遺跡から発掘されている



◆◆江戸浄瑠璃
【浄瑠璃】は【三味線】を伴奏音楽とする【語り物】
→【上方】で発生し、江戸時代初期に【江戸】へと入ってきて、新たな【浄瑠璃】が生まれた
→【金平節】、【土佐節】、「外記節(げきぶし)」や【大薩摩節(おおざつまぶし)】、【半田裕節】、【河東節(かとうぶし)】が代表的
→【上方】で生まれた【豊後節(ぶんごぶし)】が江戸の地で【分派(ぶんは)】して、発展を遂げたのが【常磐津節(ときわづぶし)】、【清元節(きよもとぶし)】である



◆◆長唄
長唄は歌舞伎の伴奏音楽として用いられ、【歌舞伎】と共に発展した
→特に江戸の地で洗練されたことから【江戸長唄】とも称される
→【歌舞伎】の【伴奏音楽】として作られた【長唄】の名曲として、【京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)】、【越後獅子(えちごじし)】、【勧進帳(かんじんちょう)】がある
→また、【吾妻八景(あづまはっけい)】のように、【長唄のみ】の純粋な演奏曲もある



◆◆日本舞踊
【歌舞伎舞踊】が華やかになり、【市井(しせい)】の人々踊れるように、【歌舞伎の振付師】たちが、踊りの師匠を兼ね、【稽古事】として成立する
→【花街(かがい)】では【舞踏】は早くから【必須】の芸となっていたが、大正14年(1925)に建設された【新橋演舞場】では、【新橋芸者】の【技芸向上】とこれを【披露する場】として、【東(あずま)おどり】の公演が始まり、現在に至る



◆◆講談
【講談】の前身は【太平記読み】で、江戸時代に発展して【辻講釈】となり、やがて【読む芸能】として【講釈場】や【寄席】などで演じるようになる

→演目には【軍談】や【記録物】、主として【武家】を主人公とする【時代物】、【町人】の世界を扱う【世話物】などがある



◆◆落語
【落語】は庶民の【言葉遊び】の一形態として発し、一人で演じる【寄席芸】の一つにまで発展した
→職業としての【咄家(はなしか)】が成立すると【師匠】のネタを【弟子】が継承し、のちに【古典落語】へと昇華する
→【寄席】の数は、安政年間(1854-1860)には【400軒】近くあったといわれる



◆遊郭
慶長8年(1603)には、【麹町】と【鎌倉河岸】に【十数軒】、【大橋(現在の常盤橋)】の【内柳町】に
【二十数軒】の【遊女屋】がすでにあった
→慶長10年(1605)、【庄司甚右衛門(じんうえもん)】が中心となり、幕府公認の【遊郭】設置を求める願書を幕府に提出し、元和(げんな)3年(1617)、取り上げられる
→設置場所は【傾城町(けいせいまち)】(【現在の日本橋人形町二・三丁目・日本橋富沢町の一部】)と定められ、翌年から開業した
→名称は、当時、この一帯は【葭(よし)】や【葦(あし)】が生い茂る【湿地帯】だったため、【遊郭】の名称を【葭原(よしわら)】としたが、【葭(よし)】の【同音嘉字(かじ)】をとって【吉原】に改称した
→【吉原】の【夜間営業】が禁止に伴い、一時期衰退するが、私設の【娼館(しょうかん)】・【湯女(ゆな)風呂】が禁止されると再び人気を盛り返す
→明暦2年(1656)、【町奉行】は【吉原】の【年寄衆】を呼び出し、【本所】もしくは【浅草日本提】へと移転を命じた
→翌年には【明暦の大火(振袖火事)】が発生し、【吉原】もほとんど焼失し、同年中に【浅草】へ移転した
→新遊郭は【新吉原】、旧地は【元吉原】と呼んで区別した
→【新吉原】は移転条件として、【夜通し営業】が許可され、大いに繁盛した
→幕府未公認で営業する遊郭は【岡場所】と呼ばれ、【深川】・【本所】・【根津】・【音羽】・【浅草】にあったが、【天保の改革(1842年)】によって廃止させられた
吉原遊郭
吉原遊郭



 
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